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ゼミ活動④〜哲学編まとめ〜

こんばんは。

 

 

今回も、前回と引き続きで須長先生をお呼びして、「利己主義とは?」についてのフィードバックと、「体験や経験を通して成長できる人はどんな人か」について考えましたのでそのことについて書いていこうと思います。

 

 

 

今回のフィードバックでとても印象に残っていることが2点あるので挙げていきます。

 

意味づけをすることが大事

→どういう結果がでたら当てはまらないのか。どういう結果が出たら当てはまるのか。を考えることが大事だと思った。

 

相手の言ったあたかも正当な答えは、どんな場面にも当てはまる訳ではない。なので、当てはまる場面と当てはまらない場面を理解して、皆でその言葉の共通理解を測る。

 

 

どの考えも鵜呑みにするな

→本質的にそうでないことも、勘違いして拡張してしまうとその言葉の本質的な意味をなさなくなる。なのでその都度、本当にそうなのか。と考えることが大事である。

 

・本当に多いのがその場でその人の考えを鵜呑みにしてしまうことが多いということ

→相手がそれっぽいことを言った時に、「ああ確かにそうだな」と納得してしまうということ。

 

 

これを自分に置き換えて考えてみると思い当たる節がある。

少しその例を挙げてみよう。

 

たとえば、軟式野球サークル『VINTAGE』の幹部での話し合いの場面だ。

来月のイベントを決める時など、メンバーの一人が「こういうことをしたいんだけどどうかな」と投げかける。そこで他のみんなは「それでいいんじゃない」と納得することが多々ある。

 

しかしそうやって、自分自身浅はかな考えのまま話を進めてしまうと、最終的に誰のためにイベントを開いているのか詳しいことまで入り込んで話し合いをしてないので、「やっぱりここってどういうことだったっけ?」と疑問が生まれてくる。

 

本当はそんな疑問、一番最初の段階で聞いておけば理解することができたのに。

 

そのように、これは皆に言えることだが、どうしても相手が発した言葉について深く追求しようとしてこなかった。自分の場合は、言葉を流すというのが習慣化してしまっていたことが要因だと思う。それにより、言葉自体を曖昧に理解しているせいで、メンバーとの共通理解が測れていないので、“ベスト”な答えが出てこない。

 

 

 

 

ん、待てよ。

 

今、自分で「“ベスト”な答え」と言ったがそれってどういう意味だ??

 

自分は何を持って「“ベスト”な答え」と定義したのだろうか。

 

こういうことを考えていると、僕たち人間は、確かに小さい時から覚えた言葉をあたかも自分の言葉のように使いこなしている気がした。ただそれは、僕らの勘違いに過ぎないことが今回の須永さんとの哲学的対話の講義で判明した。

 

 

たとえば、自分のことで例を出してみよう。

自分の3年前期の講義の中で、村上先生のマーケティング戦略論があります。この講義は、与えられた課題に対して、メンバーと話し合うスタイルです。村上先生がグループワークの前の説明のなかで何気なく使う言葉があります。村上先生は、僕ら学生が自然と考えやすいように言葉の意味まで添えて、グループワークの議題についての説明をしてくれます。

 

しかし、僕らはその意味を自分なりに解釈してグループワークに取り組んでしまいます。

 

村上先生が考えているその言葉の意味がどういう意味かを聞くこともなく。

 

結果どうなるかというと、先生が考えて欲しいことと僕らが異なる解釈で考えたことにズレが生じる。なので議題に対して、話がうまく進まない。

 

今考えてみると、こういうことで生じたモヤモヤした気持ちは、この講義に限らず、ゼミでのグループワークであったりバイト先で社員さんから与えられた仕事の内容のことなど過去に何度も経験していたことがあります。

 

このようなことも今回の哲学的対話の講義を通して、解決できるこれから意識して取り組めることだと思いました。

 

どんな状況下でも相手の考えている言葉の意味をその都度その都度、明確にして相手が思っているその言葉の意味と、自分が思っているその言葉の意味との間に生じるギャップをなくす必要があります。そうしてグループワークに取り組もうと思う。

 

 

ただ、反対に自分が発信者になった時、ある言葉を相手に伝える過程に置いて、

・正しい解釈の言葉を選んで伝えるのか

・その言葉に自分なりの解釈を添えて伝えるのか。

この点をよく考えていかないといけないのかと思うと、少しばかりか難しいというか自分が発信するときに意識することが増えるので大変だと思う。

 

ただ意識して大変だと思うことは、意識しだした初めのうちだけ。

一定の期間の間、意識し続ければいづれじは習慣化することができる。

 

まてよ、習慣化させることっていいことばかりじゃなくないか??

 

習慣化させる=良いこと

先日もアルバイト先でお客さんに対して、

「除菌消臭スプレーは、毎日靴を履いた後に、玄関で必ず吹きかけてあげてください。はじめは面倒かもしれませんが、習慣化させてしまえば、何てことないですよ」

 

そう言って、接客していました。

しかし、今回の須長先生の哲学的対話の講義を聞いて、

「いやまてよ、たとえ習慣化させても、途中で実はどういう効果なのか、しっかり知らないで降っててもやり方が違えば、習慣化したことでデメリットになるのではないだろうか」

そう思いました。

 

須長先生のお話の中では、知恵はいらなくても捨てられない、知恵は一旦見えてしまうと、その一部分しか見えなくなる。つまり他のものが入ってこない。一度得た知識は、他の知識を弾き、同類の知識しか得なくなる。

 

このようなことを学んだのですが似たようなことが、習慣化にも言えそうだなと。

 

何事も習慣化してしまえば、たとえはじめに苦労したことであっても大変ではない。しかし、大変ではなくなって、そうすることが当たり前になったからこそ、習慣化されたことに関しては、それきり触れようともせず、あたかもその行為が当たり前かのようにこなしてしまう。

 

これって意外と恐ろしいことじゃないのか。

習慣化されてることに、意味づけをする理由も大いにあるのではないか。

 

ただこれは、先ほどの須長先生の話とひも付けてみると、進めていくうちに良いことなのか悪いことなのかの区別をつけなくなっていて、習慣化されたことによってその行為にフィルターがかかったように、見つめ返すことをしなくなるということではないのだろうか。

 

自分は、ここに大きな落とし穴があるように思える。

 

つまりは、習慣化されたことでも、ただそれをそのままこなすのではなくて、

・なぜ習慣化させているのか

・どうしてこれはこう使うのか

・これってこういうことだったよな

などと時折、当たり前にこなしていることに対して、第三者的な目線から考えることも大事じゃんと思いました。

 

これは、ブログを書きつつ出てきた感想になっています。

 

あとこれは、一緒にグループワークをしてみて、感じたこと。

森田ゼミ4年生の原口さん、グループでの話の進め方や最終的に答えをだすための、方向づけ、言葉に詰まった人に対してその人を助けるかのような「それってつまりどういうこと?」といった言葉の投げかけ方。めちゃくちゃ勉強になりました。

 

 

 

今回は、哲学の講義だったけど、哲学関係なしにどこでも当てはまるような答えを得ることができた。哲学めちゃくちゃ面白いじゃん。何より悩んでいる時間がとても楽しい。

 

須長先生、ありがとうございました。

 

次回は「旅」について。

めちゃくちゃ深められてる気がして楽しい。こんなにも、みんなで悩むことができる時間があることが素晴らしい。もっともっとみんなと、今まで素通りしていた言葉について頭を悩ませて、考えてみたいな。

 

 

本格的に、インターンの説明会やら就活説明会など大学でも動き出している。

自分も準備は初めているつもりだ!!

 

もっともっと忙しくなっていくんだろうけど、時間が無いはありえないということでしっかり時間管理をしていこう。

 

 それでは今回は、この辺で失礼します。

 

 

明日土曜日は、エイベックスに関するイベントに行って参ります。

早速グループワークがあるらしいから、須長さんから学んだことを実践してみよう。

 

メンバーの発言から言葉をどんどん深掘りしていくからな!

そもそも当たり前のような言葉の意味をグループ内で共通理解できるようにするからな!

 

 

 

 

 

 

ではまた!!!!